02

 それからどれくらい、眠っていたのだろう。お腹が酷く痛む。頭痛に吐き気も。

「大丈夫か?」

 急に襲ってきた苦しさに悶えながら目覚めると、すぐそばにはお兄さん、スコッチがいた。私の頭を数回撫でながら、頬に優しく触れてくれる。苦しくても何処か心地よいと感じていたのは彼のおかげだったのだろう。声を発したいのに、むせ上がってくるような吐き気に耐え切れず私は身体を丸めた。

「水、飲んだほうがいいな」

 彼は状況を分かってくれているようで、すぐに私の背中を撫でてくれた。それで幾分か楽になった気がする。そういえばあの後、どうなったのだろう。ここは一体……。

 私が起き上がろうとすると、お兄さんが手伝ってくれる。此処はどうやらログハウスの一室なのだろう、ベッドと机だけが置けれた簡易的な部屋だ。あの、地下室のような冷たい場所とは全く違う。

「これ、飲んで?」

 スコッチはペットボトルの蓋を開けると、私に差し出してくれた。その時ふと、自分の肩に水色のパーカーが掛けられているのに気づいた。お兄さんを見上げると、やっぱり心配そうな顔をしている。無意識にパーカーを手繰り寄せながら足元の方へ視線を向けると、ベッドの先、窓際にバーボンが外を伺うように立っている。ライは、いない。

「どうしたの?」

 スコッチが差し出してきたペットボトルを、再度見ながら私は沈黙する。

「大丈夫だから、飲んで?」

 そんな私を見かねてか、ほら、と彼はベッドに片膝を乗せて近づいてくる。無意識に身体が後ずさりすると、彼は困ったように動きを止めた。

「信じて……何もしないから」

 スコッチの言葉は本当だろう。私も、本当は喉から手が出るほど水が欲しかった。でも、また見知らぬ場所、見知らぬ男性達に囲まれて、身体が反射的に拒絶反応を示している。それに、手先もまだヒリヒリと痛んでいる。

「……ッ」

 急な吐き気も催して、瞳は涙で溢れた。いやだ、嫌だ、もう、帰りたい。帰して。頭を左右に振りながら、私は声にならない声を上げていた。

「っ、スコッチ」

 バーボンの静止も聞かず、スコッチが堪らずといったようにベッドへ乗り上げてくる。怖くて、顔を上げられずにいたけれど彼が私の真横に座ったのが分かった。

「大丈夫……もう、大丈夫だから」

 そのまま、私の肩を抱くように優しく背中を撫でつける。何もしないよ、大丈夫だよと、繰り返す優しい声。冷え切った身体に、懐かしく感じる体温。スコッチに触れられた肩から、彼の力強いエネルギーが流れ込んでくるようだ。

「怖かったよね、もう大丈夫だよ」
「スコッチ、あまり……」
「分かってる」

 バーボンの制止も聞き入れることはなく、スコッチはペットボトルに自ら口を付けて、ごくりと飲んで見せた。

「ね?ほら、大丈夫。ただの水だ。だから、これ飲んで?」

 そうして次は、私の口元にそれを当てがう。今度は後頭部を支えられていて、逃れられない。でも口元にヒタリと、僅かな水分を感じた瞬間、私は今までの思考を吹き飛ばされたかのように、必死に口を動かして水をせがんでしまった。

「ゆっくり……」

 上手く、飲めない分が口から零れていく。けれど私はさらに顎を上げて要求した。その様子にスコッチは、待ったをかけるようにペットボトルを私から離す。

「急には、よくないから、少しずつ」

 そう言われながら飲む水は、涙が出そうなほど、身体に染み渡っていった。

「ライが今、ツテを辿って医者を探してくれているんだ。それまで頑張れそうか?」

 スコッチの問いかけに、私は動きを止める。本当に医者に診せてくれるのだろうか。その真偽を確かめたくてお兄さんを見上げると、彼の瞳は変わらず真剣だ。

 ーならば……。

 自分の限界なんて分からなかったけれど、静かに頷いて答える。どういう訳か分からないけれど、彼らは私を助けようとしてくれている。それを、信じてみたかった。

「それにしてもライは一体、どんなツテがあるっていうんでしょうね」

 するとバーボンは腕組みをしながら、私の方を見る。まるで私を値踏みするような視線に居心地の悪さを感じて、お兄さんを見上げた。

「今は……ライに任せるしかないよ。彼はこの国に住んでいたことがあるんだろう?」
「さあ、どこまで本当か。ただ……」

 そう言いながら、バーボンが近づいてくる。

「奴は、君を生かすことにした」

 相変わらず疑い深い目線を向けられて、私は堪らず下を向く。ライは私に“眠るだけだ”と言っていたけれど、どういう意味だったのだろう。確かにあの場では私を消すような流れだったのに、今私はは生きている。

「君、薬はどうしたんです?まさか飲まされなかったのか?」
「……っ」
「バーボン、彼女怖がってる」
「……ああ。でも、一度消そうと決めた目撃者を今は助けようとしているんだ、理解し難いですね」
「ライは、ああ見えてきっと優しいんだと思う」
「……は?」

 その時、ドアが二回ノックされた。バーボンが確認しに行くと、そこにはライがいた。

「話がついた。あと一時間程度で医者が到着する。下手に俺たちが動き回るより、この方が良いだろう?」
「へえ、どうして貴方はそんなことができるんですか、ライ」
「……この国での立ち回り方は熟知している。問題ない」

 ライはバーボンをあしらいながら私の方へぐんぐんと近づいてくる。一息置いてその瞳をすっと細めると、やっぱり彼は、特に迫力があって、とても直視していられない。

「それと、悪いがしばらく、彼女と二人にさせてくれ」

ライはベッドの脇で足を止めると、私を見下ろしながらそう言い放つ。ライと、二人……?頭の中でその状況を考えるだけでも、震え上がりそうだった。何を、されるのだろうと、恐怖した私は無意識にスコッチを見て、助けを求めてしまう。

「ライ、それはどういう……」
「答える必要があるか?」

ライはスコッチに有無を言わさず、さも当然と言い返すと、部屋の中は一瞬にして静寂に包まれた。

「俺が医者を呼びつけたんだ、このくらい当然だろう?」
「……彼女と話をしたいのなら、ここですればいい話です。それともなんですか、僕たちに聞かせられないことでもあるんですか?」
「はっ、それを君が言うとはな」
「心外ですね、仮にも僕は……」

バーボンとライは、馬が合わないのだろうか。一度口を開けば、目に見えぬ刃を交え合うような雰囲気になってしまう。でも、スコッチがすぐに二人の間に入った。

「バーボン、いい……けどライ、彼女に何かしたたら……」
「ホー、随分なことだなスコッチ。好みの女だったか?」
「……せっかく生かした情報源だ。衰弱している彼女に手荒な真似して欲しくない」

スコッチは冷え切った瞳でライを睨んでいる。今までの、優しいスコッチとは違う。

「おい、勘違いしているようだが、俺は頼んでいる訳じゃない。二度言わせるな、失せろ」
「……っ」
「失せろ」

バーボンはスコッチに目配せすると、彼らは渋々といった様子で部屋を後にしていく。

“えっ……待っ、て”

そう言いたいのに、声にならなかった。振り向きもしなかった二人の背中を、まだ追うようにドアを見つめていると、何故かライが閉められたドアの前へと忍び寄っていく。

“な、に……?”

ドアが閉まって、二人きりになったのに、ライは私の方など見向きもせず、気配を消してドアの向こうに耳を傾けていた。しばらく待った後、物音一つ立てずにドアを僅かに開けて部屋の外を確認すると、また静かに閉める。

その行動はとても、仲間に対するものには見えなかった。ライは相当、疑い深い人なのかもしれない。するとライがこちらを見るので、私は思わずベッドの上で後退りした。

でも、やっぱりライはそんな私を気にすることもなく、今度は部屋中を物色し始める。カーテンの裏から、引き出しの中、そして私が座るベッドの方へ来ると、しゃがみ込んでベッドの裏側まで探っているようだった。

「……無いな」

独り言のように吐き出されたその声は、今まで聞いたライの声音とは全く違う。え?、と聞き返したくなるほど、温かみのある声だった。

「大丈夫か?」

声を顰めながら私を伺う声に、思考が停止する。え?今、ダイ、ジョウ……ブカ、と言った?俄かに信じ難いその言葉を、頭の中で繰り返すけれど、私は言葉を失ったかのようにただ口を開けてライを見つめるばかり。

「後一時間ほどだ、持ちそうか?」

今度はそう言いながら、ライは床に片膝をついて、私と目線を合わせる。

「悪い、ああするしかなかったんだ」

その言葉は、ただ流れる音のように消え去っていく。全く理解できない状況に、私は息をするのも忘れる。慌てて短く、はっと息を吸うけれど、私はライを見つめることしかできない。

「今はこれぐらいしかないんだが、飲めるか?」

差し出されたのは市販のゼリー飲料。先程まであんなに怖かった彼の瞳は、今、全然違う。

「……っ」

安堵なのか、まだ恐怖を引きずっているのか、私の目には涙が溜まり始める。けど咄嗟に首を横に振ってそれを拒否すると、ライは眉尻を少し下げて、困ったように息を吐いた。

「事情は話せないんだが、君はもう助かる。無事に帰れるんだ。だが、その前に力尽きてしまっては困る」

結局、三人が何者かも、薬のことも分からないまま。でも今、ライが私を心配しているということだけは、確かなようだった。その優しげな声に、気持ちも緩んでいった。私はゆっくりとした動きで、この冷え切った手を伸ばすと、ライはゼリー飲料を開けて手渡してくれる。それを握ろうとしたけれど、力が入らない。ライはそれを見かねたのかベッドに乗り上げて、ゼリー飲料を私の口元へ当てがってくれた。

「それでいい」

ああよかった、これでいいんだ。よく分からないけれど、褒められることが今とても嬉しくて、私は歯で噛むようにそれに口つける。必死に喉を動かして、飲み進めた。乾いた食道を、胃を、常温の液体が流れていく感覚が広がっていく。知らず知らずのうちに涙も頬を伝っていく。そうして味わう暇もなく飲み干すと、ライが優しく髪を撫で付けてくれた。